第28話 こぼれ話 / But I digress


11月から12月にかけて、ブルキナファソは乾期の訪れと共に圃場での仕事が一段落する。もちろん、国立研究所内にはirrigation (灌漑施設)もあるから、乾期の作物栽培や実験が続けられている。しかし私にはその予定が無いから、専ら雨期のデータを取りまとめたり、レポートの作成などに追われることになる。


ぶっちゃけると、デスクワークばかりで飽きてきた。ちょっと気分転換が必要なのだ。スポーツをして汗を流すには暑すぎる(外は37℃だ)し、本を読むのもいいが、持っている蔵書には限りがある。しかも蔵書のほとんどは仕事用の専門書だ(気分転換に教科書や専門書を読めるなら、私はもっと出世していたであろう)。



そんなとき、仕事で訪れた村々の写真を眺めることがある。普段は仕事の「成果」としてしか見ていなかった写真だが、改めて見ると「おお」と驚くこともある。今回はその中から「種子生産」の話を紹介しよう。





この写真、ただの荒れ地を写しているようですが、何を意味するかは後半で。




かつての日本がそうであったように、ブルキナファソは農業国だ。石油・鉱物資源は乏しく(とはいえ金などは出る)、輸出品目は金がトップだが、すぐ後を綿花などの農作物が占めている。国民に占める労働人口の7割は農業に従事している。にもかかわらず、GDPに占める割合は3割程度でしかない。要するにほとんどの人が農業をやっているけど、儲かっていない。ということになる。


だから、例えば自分たちの畑のすぐ近くで、金鉱などが開発されると、すぐに畑を放棄して金を掘りに出かけてしまう。金鉱がもたらす現金収入はギャンブルのそれに近い魅力を持っているのだ。確かに、金鉱の仕事は魅力的だろう。一日1ドル以下(現地通貨だと500CFA以下)の生活を強いられる彼らにとって、マッチ棒一本分の重さで2500CFA(=5$くらい)の収入になるのだから。


ただし、リスクもある。先進国(イギリスやフランス、オランダなど)が出資して開発している鉱山は大規模で、かつ、洗練されているものの雇われる人数は限られている。少なくとも農村の隣に急に開発されたりしない。中国などもすごい勢いで鉱山の権利を買収したりしているが、鉱夫に現地の人間を雇わない。となると、資材も乏しい小規模な鉱山のみが残されるが(小規模だが数は多い)、ここは設備も整っていないし、安全対策がまことに杜撰である。当然、死亡を含む事故が耐えない。




さらに、国土が小さいために、資源の埋蔵量にも限りがあるし、レアメタルも産出されているが(石油がでないのも理由だろうが)大手の商社はブルキナファソに対して積極的な投資をしていないことから、今後大きく飛躍する分野とは思えない。このことはブルキナファソの政府高官も承知していて、国の重要な産業は農業であると豪語している。




そうなると、重要なのは何か。農機具、トラクターなどのインフラ、農民の組織化や技術の改良などが挙げれるが、それは一番ではない。最も重要なのは「種子」である。農民達が植え付けに使う「種子」こそが実は一番大切なのだ。農機具もトラクターも組織化された農民も、種子が無ければ仕事にならない。そして、日本では農業をする人でないとあまり気にしないだろうし、理学屋の私もさして重要視していなかったのが「品種」である。どの品種の種子であるかが、実はとても大切なことなのだ。植物には2名法とよばれる、科名+種名の科学的名前が与えれている。そのため、理学屋は品種名は普段あまり気にしない(植物学的分類に則ればあまり意味を持たない)。しかし農学においては、まさに品種こそが財産でありうるのだ。


品種は様々な特性を持っている。例えば、早生、中生、晩生などが有名な特性だ。それぞれ、ワセ、ナカデ、オクテと読み、種まきから収穫までの期間が早いか遅いかを示している。他にも収穫物が甘みを強く持っている、病害虫に対して抵抗性を持っている、収量が在来品種よりも有為に増加する、など多くの特性がある。これらの特性ある有望な品種を作り出すのがBreederと呼ばれる育種家達である。たかが品種、たかがちょっと在来種よりも優れているだけでしょ?と甘く見るなかれ。「緑の革命」としてしられる1940年から1970年代にかけて行われた農業革命は小麦の一改良品種の利用から始まって、メキシコ、インド、東南アジアへと波及した。改良品種を作り出したノーマン・ボーローグ博士はその功績でノーベル平和賞を受賞した(詳しくはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/緑の革命)。



ここブルキナファソは、この「品種」の種子を制御する機構が上手く働いていない。品種はもちろん一つの生物種ではないから、簡単に他の品種と混ざってしまう(一代雑種を除く)。そうなると、ある「品種」と思って使っているのもが、実は全く特性の違う雑種であった、なんてことも起こってしまう。本来は国や種子会社がきちんと管理して、品種の特性をきちんと保持した「保証種子(certified seed)」を作り出し販売する必要がある。日本だと、農協やホームセンター、種子会社が販売しているのがこの保証種子にあたる。ブルキナファソにはこの保証種子を作り出す、きちんとした種子生産農家(seed producer)が絶対的に不足しているのだ。



ブルキナファソをはじめとして、西アフリカ諸国は不安定な雨とやせ衰えた土壌によってなかなか安定した収量を確保できないでいる。そこで私が担当しているプロジェクトでは、極早生・早生系統のササゲ種子の普及と同時に種子生産農家のトレーニングを行っている。収穫が早いということはそれだけ干ばつ被害のリスクを軽減できる。しかし、配布できる種子の量は限られているから、それをきちんと増産する種子生産農家が絶対に必要になる。そうしなければ、多くの農民が新しい品種の恩恵を受けることはできないのだ。


ちなみに、この種子生産農家が使う「種子」はどこからくるのか?日本語だと「原種(Foundation seed)」と呼ばれるこの種子はブルキナファソでは国立研究所が毎年新たに作り出している。これが1500CFA/Kgで、市場で手に入る種子(250CFA/kg)とは値段が全然違うのだ。さらにさらに、この「原種」を作るための種子は「原原種(Breeders seed)」と呼ばれ、文字通り品種を作り出した育種家が作り出している。お値段5000CFA/kgなり。もちろん量は、原原種→原種→保証種子の順番で多くなって行き、最初の原原種では数百キロ程度だが、最後の保証種子の段階で何万トンとか何百トンになり、これが市場に出て一般の農民が作付けに使えるようになる。




だいぶ話が長ったらしくなって来たが、いよいよ種子生産農家の話。ブルキナファソでは「種子法」と言われる法律によって種子生産農家が満たすべき条件が決められている。その中に種子生産圃場は3ha以上、という項目がある。これは一般の農民によっては極めて難しい。彼らが持っている土地はせいぜい0.2haとかなのだ。となると、当然種子生産農家になれるのは、一部の金持ちとか土地をもっている人だけになる。そうなると市場原理で、資金が局部に集中してしまう。結果として、一部の大規模種子生産農家が権力と利益をまとめて掻っ攫うということになってしまう。これはこれでビジネスだから我々科学者が介入すべき問題ではないのだが、ここを改良しないといつまで経ってもブルキナの種子環境が改善されない。



そこで、我々はやる気のある農民達を組織化して、新たに種子生産農家となるべくトレーニングを施すことにしたのだ。まず、最低4つ以上の家族がグループにいることを条件にする。これは一つのグループだけだと、ビジネスに失敗したときのリスクが大きすぎるからだ。次に各対象農村の代表者(長老)に彼らに3haの土地を貸してあげられるように交渉する。3ha以上のまとまった土地を管理しているのは、大概その集落の長老一族だからだ。もちろん賄賂などの要求も出てくるが、粘り強い交渉でほとんど無償で土地を借りてしまう。もちろん各種子生産農家が種子の売り上げ代金を得た暁には長老にマージンを支払う、でもプロジェクトから金を出さないというのは結構異例らしい。しかしこれは各村の種子生産というビジネスに関わる問題だ。プロジェクトが手を貸すが、本来は起業を目指す種子生産農家がリスクを負うべき問題であり、私が土地の借用代金を払うのはおかしい。まあ、日本人には当たり前に理解してもらえると思うが、こちらはちょっと事情が違うのだ。



で、最初の写真が借りた土地。4haはあるのだけれど、これって本当に畑に使えるのだろうか?
ただの荒れ地にしか見えなかったのだが。








種子法には国の担当官による圃場のチェックもある。だから事前にきちんと3haの土地を確保しているのかをGPSなどを用いてチェックする。ちょっと見にくいですが、彼はGPSを持って、圃場の外周を走っている。お疲れさまです。







外周を走り終えると、走ったエリアの面積が計測可能に。なんせ、農民の土地は曲がりくねったり、ジグザグだったりと、なかなか正確に測定するのが難しい。そんなとき、GPSは無くてはならない機械だ。








で、時間を飛び越えて、収穫目前の種子生産農家の圃場。








あの荒れ地にしか見えなかった圃場が、見事にササゲの生産圃場になっている。小さな木は切り、ブッシュを焼き、石や岩を除いて、ひたすらに4haを耕したのだ。

  注:ササゲはマメ科の作物で、通常は成熟した種子部分を食します。日本では小豆と同じ様な調理法で食べられています。







ブルキナファソで農業のプロジェクトを行っていると、こことこいつらを変えることなんかできるもんか、と思うことも多い。嫌気も刺すことだってある。でもササゲの生産圃場の写真を見ていると、「やれるかもしれない」という希望が私の胸の中にちょっとだけ戻ってくるのを感じるのだ。










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第27話 熱砂視線 / Do you have an eye problem? Why are you grilling me?


「・・・・・・」




ヒソヒソ。ヒソヒソ。時に噛み殺した笑い声。



「・・・・・・・」



ヒソヒソ、ヒソヒソ。






ウンザリだ。やっと長い旅を終えて、ブルキナファソはサリア村に戻ってきた。旅の疲れはあるものの、たまった仕事を片付けねばならない。私の住居がサリアの国立農業研究所の敷地内にあることは以前、触れたと思う。同様に私のオフィスも住居から歩いて5分の場所にある。広大な敷地が国立農業研究所の土地(国有地)なのだが、当然付近にはサリア村の人々が暮らしているし、研究所内で日雇いの仕事をこなす人も非常に多い。研究所内の道は舗装こそされていないが、それなりに整備されている。結果として、多くの人々が所内の土地を日常的に交通に使っている。




それは別に構わないのだ。日本の国立大学も同様に付近の住民が敷地内に入って散歩することなど日常の光景だ。そればかりか、脱穀や種子の仕分け作業などは多くの人の手が必要だし、彼らにも現金収入になるのだから、お互いが持ちつ持たれつの関係を作っている。では、冒頭、何が問題となって私を苛立たせるのか。




視線だ。観光として外国を訪れる人はまず経験することはないだろう。今は交通網が発達し、観光できる国では最早日本人など珍しくは無い。しかし、ここサリアは違う。日常的な楽しみに乏しく、娯楽も無い。そんな村にただ一人暮らす外国人、肌の色が白い(私は黄色人種だが色白なのだ)、となればそうれはもう好奇の目で見られてしまうのだ。彼らにしてみれば、外国人の顔を見るだけでも、そいつが道を歩っているだけでも、外でタバコを吸っているのをみるだけでも、娯楽となり得てしまう。珍しくて仕方ないのだ。結果として、私はジロジロと見られることになる。オフィスの外で一服していても、道を歩いていても、外で実験をしていても、家で庭の野菜畑の手入れをしていても。これは恐らく発展途上国や日本と縁がなく、観光地化されていない国を訪れ長く滞在した人なら経験があると思うが、極めて不愉快なのだ。


朝や午前中のうちは、私のスタッフや他のスタッフもオフィスと実験室にいるから、気がつけばジロジロ見ている農民を叱りつけることもある。しかし、国立研究所は(驚くことに)、7時半始業の14時あがりなのだ。つまりは午後2時にはみんな帰ってしまう。この仕事時間にはアフリカの環境や文化的背景があるのだが、ここでは割愛しよう。とにかくも、研究者は一日のうちわずか6時間程度で仕事を終えることなどまずない。下手すれば寝食を忘れて仕事をしてしまうものだ。だから、当然ながら私は午後2時以降も黙々と仕事を続行している。となると、英語はおろかフランス語さえも通じない現地農民にいいように覗かれてしまう訳だ。さすがにオフィスの窓に張り付いてまで覗く連中はいないが、外の木陰から熱い視線を投げ掛けてくるのだ。



外で一息つくにも、考え事をしながら歩き回るのも、通行人が足を止めてまでジロジロ見てくるのだ。怒ろうにも言葉が通じない。それどころか、外国人が何か怒ってる→面白い、という図式が成り立ち、ますます好奇の目で見られる羽目になる。私は現地語で「向こうに行け」とか、「何見てやがる!」などの悪い言葉を話すことができる。しかしやっぱり、「外国人が俺らの言葉をしゃべっている→面白い」となってしまうのだ。結局、無視するのが一番ということになる。でもすごく不愉快だ。




これはサリアだけでなく、他の都市に行ったときも、農家のほ場で仕事をするときも同様だ。私のスタッフが気を使ってそのような人を叱りつけるので、出張中はあまり気にしなくても良いが、一人のときはどうにも困るのだ。特に子供などはこちらが怒れば怒るほど、なぜか喜ぶようだ。ほんと、銃があったら(狙いはしないが)威嚇射撃をするだろう。他の国の研究者と話すときにも、アフリカに関してはこの手の話題に事欠かない。日本人などは、普段から美徳として人の形振りをジロジロ見ることをしないようにしている(野次馬根性は強いくせに)。だから人から執拗にされると、ほんとムカつく。見せてナンボの(そう思っていない女性にはすみません)露出度が高い服を着こなし他の視線など物ともしないフランス人女性やイタリア人女性が「あの視線は嫌だ」というのだから、余程のことだろうと思う。



・・・すいません、首都などでそのようなフランス人女性がいると、ジロジロ見ておりました。現地の人の肩を持つ気などさらさらないが、この地の娯楽の無さには半ば呆然としてしまう。首都などの中流階級や上流階級を除けば、テレビなどを見られるのは食堂や、電気屋の前しかない(昭和の日本みたいだ)。新聞も本も届かない農村部では(もともと文字を読める人も多くない)日常的なインプットはラジオだけだ。しかもフランス語でしゃべるチャンネルは何を言っているのかわからず、音楽だけを聴きたくてラジオをつけているのだそうだ。


ああ、折角久々に「地元」に戻ったのだから、もっと楽しい話をしたいところなのだが。やれやれ。それでも仕事の合間の「一服」は私にとっては重要な意味を持っている。それに考え事をしているときは、机に齧り付くのではなく、周囲をブラブラと歩きながら妙案を絞り出すのが私のスタイルだ。



「こんにちわ、ドクター」



「ん?ああ、お疲れさん。元気かい?」



「・・・・・・・・・」



「こっちのおチビさんも元気そうだな」




20代前半の女性と3歳くらいの女の子がラボの近くの木陰にいた。彼女たちは、ラボの周辺をウロウロしているのだが、別に野次馬ではない。「お仕事中」なのだ。



この時期(11月から12月)は、脱穀や種子の選定などの仕事はあるものの、乾期につき、通常農民は畑仕事が無い。しかし、国立農業研究所は「研究所」であるから、当然乾期の間も実験を継続している。つまり灌漑設備があるのだ。水道で水を撒きながら雨の無い時期でも作物を育てている。それも、まあ、当たり前のことだ。問題は家畜である。


乾期の間、家畜たちはいつものように村の周辺を徘徊して餌を探している。しかし乾期の間は草も枯れ、主立った食べ物が見つからないのだ。そうすると、圃場にある作物がどれほど彼らにとって涎垂のご馳走かは想像に難く無い。普段は金網などを張って、家畜からの食害を避けているのだが、今年は金網が盗難に遭ってしまい、灌漑圃場の防御力が極端に低下しているのだそうだ。そこで、農民の中から即席の「警備員」を雇っているということだ。彼ら(彼女ら)は研究所のスタッフが午後2時で仕事を終えるのと交替で、圃場の見回りにつく。私のラボの周辺にも乾期の間の実験作物があるから、彼女たちのように見張りがついているのだ。




乾期の大地 もうカラカラ



当然、毎日会う訳だから挨拶もするようになるし、他の農民のようにタバコに出てくる私をいちいちジロジロと見ることは無い。



「今日も暑いな」



「・・・ドクターはタバコを吸い過ぎですね」



「ん?言うようになったな。まあ、その通りだが、ここの農民たちの視線が私をいらつかせて、タバコの量を増やしているのだよ」



「そうですか?皆が皆そうでもありませんよ」




「ほう、そうかな?」



ちょっと疲れていて、意地悪になっている私。そうこうしている内に、自転車の走る音と、若者が話している声が近づいてきた。私はジェスチャーで木陰で小さな女の子を面倒見ている彼女に「ほら来たぞ、見ていろ」と合図した。



ゆっくりと暑い日差しの中を自転車が近づいていてきた。乗っているのは男と女。年の頃は20代前半だろうか。楽しそうに話をしている。そのゆっくりとした自転車が私がタバコを燻らす所まで来た。私が「やれやれ、また不愉快な思いをするのか」と覚悟している前を、自転車の二人は楽しそうに話しながら通り過ぎていった。ゆっくり、ゆっくり。


「あれ?」



私は若干拍子抜けした。しかし、考えても見れば当たり前だ。一日の仕事が(おそらく)終わり、(おそらく)愛し合う若い二人が、二人だけの時間を大切に、急がずにゆっくりゆっくりと自転車で家に帰っているのだ。外国人だろうが、大統領だろうがお呼びじゃないのだ。



なんだか少し救われた気がした。どんな土地にいても、若い二人が紡ぎだす二人だけの世界には、何人たりとも入れない。これがこの国でもそうだと確認したら、ちょっとほっこりした気分になった。こんな一服があるから人生は面白い。




私が振り返ると、「警備員」の女性がにっこりと満足そうに笑って、自転車の二人が去った方向を指差した。「ほらね」と言いたいらしい。




折角の一服が台無しだ。仕方が無い。私は次のタバコに火をつけて、彼女に対して指を一本立てて、「もう一回」と催促した。我々はSaria村のメインストリートを睨みながら、次の標的を待つことにした。










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第26話 故郷は遠きにありて思うもの/Much spends the traveller more than the abider.


「ヘイ、ジャポネ!こっちが安いよ!!」


「待て待て、うちの方が親切で安全だぞ!」


「ミスター、両替はいかが?」


「・・・・・・・・・・・・・・・」



ナイジェリアの出張が終わった後の某日、時刻は午前2時30分、私はセネガルダカールにいた。パリ−ダカール・ラリーで有名な所だ。空港の出口は勿論真っ暗で、しきりに白タクの勧誘と売り子が声をかけてくる。こんな時間まで商売熱心な事だ。私はなぜこんな時間に、このような場所にいるのだろう。


研究所の全体会議は無事に終了した。私は予定通り、再びコートジボアールを経由して、ブルキナファソに戻ることになっていた。この旅路、色々な事があったが、なかなか得難い経験(空港警察に捕まるなど)をしたし、会議も順調に終えたので、少し安心していた。



「家に帰るまでが遠足だ!」


とは、助手時代、飲み会で羽目を外す学生達に言い聞かせた決まり文句であった。ところがどうだ。私に油断があったのか?いや、違う。世界には自分自身の力ではどうしようもない事態が度々生じる。大事なことは、その事態に如何にして立ち向かうかだ。・・・・いやまあ、そうなんだけど、何なの?私の出張は呪われてるのか?



この記事は未だ2010年を舞台に書いている。勘の良い読者ならお気づきだろう。このとき、私が経由するはずだったコートジボアールに風雲急を告げる事態が生じていたのだ。



2010年11月某日、コートジボアールで大統領選挙が国連と国連軍およびフランス国際部隊の協力の元、実施された。結果は、旧政権のバクボ大統領が新鋭のウラワタ大統領に敗北した。しかし、旧政権は選挙結果にさまざまな難癖をつけ、国際社会の非難も何のそので、暴力的に政権を掌握してしまった。詳しくは当時の緊迫した状況を伝える、在コートジボアール日本大使館大使岡村善文氏のブログを参照いただきたい(http://blog.goo.ne.jp/zoge1 ブログは現在終了しています)。


いまいちピンと来ない方の為に端的に要約すると、ひとつの国に二人の大統領が同時に誕生するという、稀に見る事態がコートジボアールに生じていたのだ。一方の旧大統領は軍事力を駆使して、国内のあらゆる統治力を支配。もう一方の新鋭大統領は国連を始めとする国際社会から「正統」な大統領と認められるも、一切の国家的権力を剥奪され、民間のゴルフ場のホテルに立てこもっていた。さらに国内には各々の大統領が指名した二人の首相、二つの政府が存在するという事態である。これは大混乱だ。勿論、軍事衝突を警戒して国内には夜間外出禁止令が敷かれ、もちろん国際空港などもすぐに閉鎖された。ナイジェリアから西アフリカに向けてコートジボアールを経由する便は少なくない。こちらも大混乱という訳だ。そのために、私はナイジェリアから帰れなくなってしまったのだ。ラゴスの空港で散々揉めたのだが、しかたなく一端ダカールまで飛んで、そこからブルキナファソに入国するルートを取ることにした。


というのも、以前も書いたように、西アフリカでは日本人がビザ無しで入国できる国は限られている。迷った末に、日本人がビザ無しで滞在できる数少ない国、セネガルに移動する事を決めたのだ。ガーナやニジェールを経由する事も可能であったが、どちらの国もビザが必要だ。この混乱で乗り継ぎに支障が出れば、その国で何日か滞在する必要が出てくるだろう。となれば、先の経験を生かして、ビザが無いと空港から出られなくなる国は避けた方が良い、と思われた。



ところがどっこい、ラゴス空港からの出国にも遅れや混乱が生じており、予定されたダカール行きの飛行機が来ない。結局5時間待たされてセネガルダカールへと飛び立ったのだった。当然到着も遅れに遅れ、真夜中過ぎに空港に降り立つ事になってしまった。ホント私の出張は呪われてるのだろうか?


セネガルはアフリカ大陸西端の共和国で、首都はダカールブルキナファソ同様に旧宗主国がフランスである事から、フランス語が公用語として用いられている。空港の外での勧誘はフランス語と、観光客用の「特定のフレーズ」だけ流暢な英語だ。こうなれば、どうもこうも無い。とりあえずは疲れた体を休め、ブルキナへのチケットを確保しなければならない。自棄のヤンパチだ、コンチクショウ。



「ヘイ、ジャポネ。マイ・フレンド。疲れているな?大変だったみたいだな。俺たちは良い宿を知っているよ。どうだい?」



「そうだな、頼むとするよ。いくらだ?」


「気にするな、マイ・フレンド。何も問題無いよ。疲れているだろう?宿に行ってからゆっくり話そう。」


「ふむ、ならば荷物を持て。俺は確かに疲れてる。どうせ違法の白タクだろう?空港内の駐車場に車が入れないのだろうが?俺が警備員に説明してやるから、車をここに呼べ。」


「そ、そうか?わかった、何も問題無いよ。」



賢明な読者諸氏には説明は不要だろう。しかし念のため注意しておくが、海外で気軽に「マイ・フレンド」/「問題無いよ」などと声をかけてくる奴は、絶対に信用してはならない。よほど交渉か格闘術に自信がある場合を除き、無視する事をお勧めする。


「なかなか、良い車だな。良し、俺は明日にはチケットを買いに空港に戻るから、ここから近い宿にしてくれ。」


「OK. マイ・フレンド、問題無いよ。」


外は街灯も乏しく、道も良く見えない。土地勘など無いから、どこに連れて行かれているのかもわからない。しかし、ほどなくホテルまでは着いた。



「荷物は我々が持つよ。」


「そうか。部屋の外までで良い」


「いやいや、マイ・フレンド。あなたは疲れている。部屋まで運ぶよ」



そう言って黒人の二人は強引に私の取った部屋まで入ってくると、さまざまな雑談を初めて、なかなか部屋から出ようとしない。そう、ここまでの「親切料金」を切り出すタイミングを狙っている。交渉がもつれれば、そのまま部屋に居座って恫喝なりを繰り出すつもりなのだろう。相手が一人の疲れた日本人、自分らは二人組だ。いざとなれば力で解決も出来よう。



「ところで、マイ・フレンド。仕事の話をしようじゃないか。」


お出でなすった。二人が提示した料金は空港からホテル紹介、タクシー代まで込みでおよそ3万円だった。無論、法外だ。


「おう、良いとも、払おうじゃないか。」


「そ、そうか!ありがとうマイ・フレンド。」


「だがな、日本人は約束を守るが、用心深い。どうだ、あんたらはどうやら親切で信頼できそうだ。明日の空港への道もお願いできないか?そしたら、料金は1.5倍払ってやろう」


「おお!本当か。問題無いよ。何時に迎えにこれば良い?」


「そうだな、疲れているし、8時までは寝たいな。どうだ9時に来てくれるか?」



「わかった。問題無いよ、マイ・フレンド」


「良し、じゃあ、とりあえず前金として30ドル払っておこう。」


「ちょっと待ってくれよ。それはあまりに少ないよ。」



「言っただろう?日本人は用心深い。この金はあくまで一時金だ。明日、時間通りに迎えにくるなら、心底信用して、全額を一括で払うぞ。俺は金には困っていない。しかしお前達が嫌ならこの話は無しだ。」


「ちょっと待ってくれって・・・」



「もう一度言うよ。俺は疲れている。金はある。言う通りにすれば、お前達が提示した料金の倍でもいいぞ?どうする?」



現地語(たぶんフランス語ではなかった気がする)で話し合う二人組。時刻はすでに3時半、お互いに疲れが見えている。


「・・・・。Ok, 問題無いよ、マイ・フレンド!じゃあ明日の9時にまた会おう!必ず時間前に迎えにくるから、私たちを信用してくれ。」


「わかった。下の食堂でゆっくりと食事しているよ。」


ようやっと、二人は30ドルだけ持って、私の部屋を出て行った。金持ちのちょっとだけ交渉のまねごとが出来る日本人、良いカモだ。と思ったのだろう。



次の朝(というか交渉から3時間後)、私は朝6時半にホテルの使用人を叩き起こして半ば強引にチェックアウトすると、さっさと空港に向かったのだった。2時間も睡眠をとれば充分だ。真夜中の案内付きのタクシー代金と考えれば、30ドルでも高いがまあ我慢しようかな。あの二人にも「欲をかくと失敗する」・「日本人にも酷いやつがいる」ということを教えてやったのだが、まあ授業料はサービスしてやろう。



結局、セネガルダカール空港のチケットコントロールにも2日を要した。セネガルは観光ができるため、時間つぶしに不自由はしなかったし、何よりも使ったホテルはどこも綺麗で、海が見られた事が救いだった。ブルキナファソ内陸国であるため、海が無い。私は山育ちではあるが、海釣りが趣味であるから、この景観には大いなる癒しを感じた。






ダカールの朝焼けの海、ホテルはロフトが付いていた


私はダカール滞在中、毎朝美しい朝焼けの海をホテルのバルコニーから眺め、濃いコーヒーで煙草の紫煙を楽しんだ。そして新鮮な魚介類を食し、移動には観光客をターゲットにしている怪しい白タク業者を、あの手この手で値切り倒し、顎で使いまくった。最初の夜の二人組に会うのではと、多少不安ではあったが、幸いにも二度と会わなかった。人間、自棄になると結構大胆になるものだ。


最終的にブルキナファソへの入国はダカールからさらにマリ共和国バマコを経由して行かなくてはならなかった。この出張で、私はナイジェリア/コートジボアールセネガルマリ共和国、と4カ国も訪れなくてはならなかった。最も不思議に思ったのは、特に好きでもなかったブルキナファソに戻り、飛行機から首都ワガドゥグゥーの街の灯を見たとき、そして、私の帰りが遅くなった事で大変心配してくれていたスタッフ達が空港で待っていてくれたのを見て、



「ああ、やっと帰って来た」、と思ってしまった事だった。





別にブルキナファソに愛着があったとも思わないが、とにかくガラにも無く、ちょっと感傷的になったのだった。










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第25話 カゴのトリ / Caged bird


「Good morning Sir!!」




「ああ、おはよう。」



「Sir! Good day」



「やあ、いい天気だね」



博士の学位を取ってから初めて、「sir」の敬称で呼ばれた。ちょっと嬉しいけど、照れ臭い様な気もする。古い映画ファンならば、鬼教官のGunnery sergeant Hartmanを思い出すかも知れない。「何にでもSirをつけろ!」とは映画"The Full-metal Jacket"の名台詞だ。 まさか自分がSirを付けて呼ばれる日が来るとは思っていなかった。


ここは私が所属する国際研究所のナイジェリア本部だ。日本を遠く離れ、ブルキナファソの小さな農村に居を構えて6ヶ月。その私からすると、ここはアフリカではない、まるでヨーロッパの町だ。ここはおよそ1000haという広大な土地をすべて強固な壁で囲い、その中に研究施設・研究者の住居・実験圃場・自家発電施設・本部施設・ホテル・レストラン・プール・テニスコート・バスケットコート・スカッシュコート・ゴルフ場・幼稚園に小学校・病院・トレッキングができる森・果ては湖までも完備している。それだけでなく、施設内には私設の警察署まであり、ここでは政府要人のボディーガードも銃を携行する事ができない。


また、所内では研究者のIDカードがあれば、買い物などにも現金が一切必要ない。そして所内には警官・警備員・庭師・ホテルやドミトリーで働くメイド・コック・各種機関士・各科学者付きのテクニシャン達など多くのスタッフが常駐して働いている。朝などに私が宿泊しているドミトリーからレストランまで歩いていても、多くのスタッフに声をかけられるのだ。そのすべてが「Sir」付けである。



私の泊まっていたドミトリー


日本では「末は博士か大臣か」と言われたのは遥か昔で、今では「博士」だと言おうものならちょっと引き気味に「そうなんですかぁ」という何とも言えないリアクションを返される。何か言ってもすぐに否定したり、取っ付きにくい人、変わり者、という印象が先行している様な気がする。ここに旧帝大の肩書きがつけば、相手の態度はがらりと変わり、そこに助教授(今は准教授)以上の肩書きがつけば、たちまち羨望のまなざしを受けるのだから不思議なものだ。私が言いたいのは、要は「博士」を持っていることがあまり良い印象(あるいは尊敬の対象)として受け取られない、という事実である。まあ、この点では政治家や大臣も似た様なもんだ。


ところが、欧米やその他の外国ではそうではない。「博士」の学位とは、世界でも最高学位であり、これを所持している者はどの国の人間かを問わず、大変に尊敬してもらえる。場合によっては、露骨なほどに優遇される。日本では感じる事が無かったが、海外に席を置くと、これが良くわかる。特にヨーロッパではこの最高学位が大変に大事にされている。航空機のチケットなども「Mr」ではなく「Dr」で予約し、クレジットカードも「Dr」で登録しておくとさらに良い。本当に相手の態度が変わるのだ。そこには羨望や偏見ではない純粋な「尊敬」がある。これは大変に嬉しい。まさか海外で自分が持つ学位についての誇りを再確認しようとは思わなかった。この意味で、日本は酷いものだ。


ブルキナファソやナイジェリアについても、旧宗主国がフランスとイギリスということもあり、この文化もきちんと伝わっている。それに加えて、ちょっと複雑なのは、彼らの所謂「奴隷根性」が西洋式の最高学位「博士」に対してのコンプレックスとして現れている気がする。偉い人、決して不愉快な思いをさせてはいけない人、もし何かあっては我が国の沽券に関わる、とでも言いたげに色々と気を使ってくれるのだ。どうも、ありがとう。学位に見合う仕事で私の気持ちを返します。




「ここは別世界だな!最高だよ!」



焼きたてのパンズを使ったハンバーガーを頬張りながら、ウガンダの支所から来たジョナスが言う。彼は私と同じ時期に研究所に入所し、ウガンダのあまり状態の良くない(不便きわまりない)施設にいることから、私と気があった。




我々がハンバーガーを食っていたレストラン




「そうだな、ゴルフ場までついてるなんて、ため息が出るよ」



「ネットを試したかい?ここではどこの施設にいてもWi-Fi通信ができるぞ」



「そうなのか?それは知らなかったぞ」



「コミニケーション・オフィスのJimに聞いてみたか?彼がPCの設定方法を教えてくれるよ」




コミニケーション・オフィス(CO)とは、日本ではあまり馴染みが無い呼び名だが、広報課にあたる。ここでは、所員の通信環境関連(メールなど)をコントロールしたり、外部向けのニュースや雑誌を刊行したりしている。もっと重要なのは広報の仕事をアシストする事だ。私の研究所では、例えば外部に向けたインタビューを受けたり、新聞や雑誌の記事などを書く場合、すべてCOの許可を受けなくてはならない。特にアフリカでは政治問題と宗教に関することがらは、思わぬトラブルを招く事がある。


ブルキナファソではあまり気にならないが、ナイジェリアや敬虔なイスラム教徒を抱える国に取っては、日本では想像できないほど宗教のタブーに触れた場合の責任が重い。場合によっては死を持って償う必要がある。仏教もキリスト教神道もごちゃ混ぜの日本人にはピンと来ないだろうが、「宗教に生きる人々」は、文字通り自身の宗教の教えに命をかけているのだ。



有名な事件としては1989年に出版された「悪魔の詩」という本が思い浮かぶかも知れない。これはイスラムの教えとその重要人物を痛烈に批判したものである。これが発表されたとき、イスラム社会から著者と関係者に対してひとつの「ファトワ」が発令された。ファトワとはイスラム教社会における法学者の意見書と見なされているが、実際はイスラム社会の大号令と取った方が良いだろう。このとき発令されたファトワは「死刑」だった。これを聞いたとたん、著者ならびに関係者らは外界との連絡が取れない所にすばやく身を隠した。しかし、宗教への認識が甘い日本で悲劇が起きた。日本のある大学で、この本を日本語に翻訳した研究者が、大学構内で暗殺された。しかも、ナイフで首を何度も切り裂くという、無惨な殺し方であった。西欧的な考え方では、これはあくまでも「報道と出版、そして表現の自由」の範疇だろう。しかし、この世界には我々とは全く常識を異とする人たちがいる事を知っておいた方が良いと思う。



ちょっと話が逸れてしまったけれど、COはそのような発言や、インタビュアーの質問などに目を光らせ、科学者と研究所の利益を守るのだ。




「やあ、Jim。はじめまして。」



「やあ、噂は聞いているよ。ブルキナファソの農村で奮闘中の○○(私の名前)」



「いつもメールで世話になっているね。直接礼が言いたくてね」



「そいつはありがとう。ん?ほう、Macじゃないか」



「そうなんだ、ここでもメールを使いたくてね。設定を教えてくれ。」



「これは珍しいな。ちょっとイジラセてくれ」




Jimは特にメールや通信ハード関係とプログラムを担当している技術屋だ。彼のオフィスは使い古したPCの部品や機械などで溢れ返っている。私にはとても馴染みのある風景だ。なぜなら私も生理学者として、数々の機械を自作し、実験に使ったりしてきた。もともと機械が好きなのだ。新しい機械や珍しいガジェットに目がないのも同じだ。彼とは気が合う。



「Jim、ここはいいねぇ。昔の研究室を思い出すよ。キャンパスも何でも揃っていて、ブルキナとは比べられないな」


「まあ、俺のオフィスは別さ。でもここの生活は思っているよりも辛いもんだよ」




彼が言った「辛い生活」には、同意できなかった。お前さんは俺の生活環境を知らないから、そう言えるんだ、と。



研究所はイバダンという都市にある。キャンパスを一歩でも出れば、そこは喧噪が渦巻く「ナイジェリア」なのだ。なぜキャンパス内がこれほど充実した「リゾート」になっているのか。それにも理由はある。単純に、ここまでしないと、海外の研究者が逃げてしまう、優秀な人材が居着いてくれないからだ。ちょっとナイジェリアという国の性格が垣間見える話でもある。




「ここは地獄よ」



ドキッとする台詞を言ったのは、誰あろう里村博士の家のメイド、ジュリーだった。里村博士もイバダンに家を借りている。彼はもともとはナイジェリア北部の支所にいたが、配置換えになり本部があるイバダンへと移っていた。メイドのジュリーはもう5年も里村家で働く気のいいアネさんだった。里村の強い要望で、彼女も北部の町からイバダンへとそのまま移住して来たのだ。キャンパス内にはメイド用の住居まで完備されている。彼女は最初「こんな綺麗な所に住めるなんて、夢のようだ」などと言っていた。だから「地獄」なんて形容にビックリしてしまった。何があったのだろう。それこそ、メイドである彼女から見れば、失礼ながら、きっと生涯にわたって住む事の叶わないであろう環境がここにあるはずなのだ。




「だれしも、始めの1週間は天国の様な場所だと言い、その後は地獄のようだと形容します。」




とは、里村博士の言葉だ。





「なるほど、ここには何でもある、そして何も無い」




1週間ほどの滞在だったが、最後の方は流石に飽きて来た。朝から会議に白熱し、午後からバスケに興じ、夕食はレストランでシェフの豪華晩餐に舌鼓を打つ。最高だ。しかし、それも毎日続くと、いささか消化不良になる。私のオフィスがここにある訳ではないから、仕事と言っても会議や他の研究者との情報交換や議論が主となる。そう、実験ができない、そしてなかなか腰を落ち着けられる場所が無いのだ。買い物をするにも小さなコミニティーストアがひとつあるだけ、レストランのメニューにも飽きが来始める。そうして見ると、なるほどここは箱庭なのだ。外界からエデンを守る壁は、同時に中にいる者にとっての牢獄ともなりうるのだ。ここに住んでいる者は、ドライバーを雇ったり、自分で車を運転してキャンパス外に買い物に出かけたりもする。しかし、皆が皆、疲れた顔か怒った顔で帰ってくる。例外無く外で嫌な思いをしてくるのだ。



科学者達は皆「カゴの中の鳥」だったのだ。そうしなければ、優秀な者達をつなぎ止めておけない、ナイジェリアという国。そして、リゾートとも言える環境の中でも決して永続の幸福感を得られないという、人間の業。私もここで色々と考えさせられてしまった。



映画"Matrix"にある、エージェント・スミスの言葉(やや曲解)。
「人間に理想的な幸福に満ちた世界を与えたら、死んでしまった。彼らが生きて行く為には、程よい悲劇と苦痛、そして不幸が必要だったのだ。なんて不合理な生き物だ、人間とは。」



そうだねぇ、きっと蛇が誘惑するまでもなく、いつか人間は自分でエデンの外に出かけて行ったのではないだろうか。いつしか知恵の実にも手を出していたと思うのだ。それは今も昔も変わらない、人間の業、そして我々科学者が最も大事にする「好奇心」と言う名の禁忌なのかも知れない。この意味で、あらゆる教典(聖書やコーランなど)は、理想像の中に巧みに人間の嘘を隠している。あまり宗教的な表現はしないほうが良いと言っておきながら、宗教的な結びになってしまった。




おや、誰か来たようだ。こんな夜更けに、何だろう。
では、このへんで。











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第24話  車、千里を駆ける / Chase!

Nigeria, ナイジェリア。西アフリカはギニア湾に面する連邦共和国で、産油国でもある。首都はアブジャ、最大都市はラゴスである。国名の由来はニジェール川(Niger)から来ており、お気づきの方もいるかも知れないが、隣国ニジェールとは読み方が違うだけで、同じ意味の国名である。ブルキナファソとは違い、旧宗主国はイギリスであり、公用語は英語である。アフリカ最大の人口を誇り、アフリカ最大の食糧消費国でもある。


私が所属する国際研究所はこのナイジェリアにHQ (Headquarter)を持っている。ナイジェリアについては様々な噂が飛び交うが、・・・・概ねその通りだろう(良い意味でも、悪い意味でも)。よく西アフリカは「だめもと文化」であると言われる。メチャクチャな主張であっても、「だめもと」でとにかく要求してくる。慣れていないと、日本人にはびっくりするし、いちいち断るのに疲れてくる。これが彼らの交渉術なのだろうと思うが、とても交渉とは思えない無茶苦茶な要求が多いのだ(思い出すのも面倒だから、例を挙げるのも躊躇される)。


時々、アフリカで支援活動などに携わっている日本人に会う事がある。勿論人にも依るのだが、多くの人がその顔に疲れを浮かべている。中には周りが日本語を分からないのを良い事に、露骨にその国の批判や人々の批判をする人もいる。支援として、その国の人々を助けに来たはずなのに、その人々に数多くの要求や嫌な思いをさせられているのだろう。彼らに共通するのはその目の濁りと疲れの表情である。そして共通するのが、「任期は何時何時までで、日本に帰れる」と嬉々として語る事だろう。なんだか、悲しい話だ。


私の場合はあくまで「仕事」と割り切っているからあまり気にしない。農学の研究は確かに実学であり、人々を科学の力で直接に助けようとするものだ。そのため国際的な「支援」や「援助」とも密接に関わっている。しかし、誤解を恐れずに言えば私にはあまり興味が無いのだ。私は科学者であり、その使命は人々を科学の力で助ける事であり、科学は常に人の生活を向上させる為にあるものだと理解している。それでも私の根っこはやはり「理学の人」なのだ。私からすれば、科学はこの世界を理解するための最も有用な手段のひとつ、なのだ。私を突き動かす原動力はその仕事が「面白い」か「そうでないか」なのだ。面白そうだと思えば、アフリカだろうが南極だろうが出かけて行くし、そうでないと思えば、歩いて5分の郵便局にも行かない。まあ我侭な子供みたいなものだ(問題はその子供が十分な論理武装をしていることだ)。


だから(これも誤解を恐れずに言えば)、誰かを助けようとして来て、その人々に感謝されたりする自分を想像する事も無いし、その人々に裏切られるようなことがあっても気にしない(頭には来るが)。データの美しさや、仕事の面白みが失われなければそれで良いのだ。私が得ようとしている充実感は、おそらくこの国に悪態をつく事で気を紛らわせている日本人とは違う所にあると思う。念のため言っておくが、私は彼らを批判したり、否定したい訳ではない。情熱の下に誰かを助けたり(それが国外の人であっても)、他人の為に自分の力を使おうとする人々を私は尊敬する。私にはなかなか出来ない事だからだ。



さて、ナイジェリア最大の都市ラゴスの空港に到着した私は、ウンザリするほどの行列を前に立ち尽くしていた。パスポートコントロール(入国審査)を前に多くの人々が係官と喧嘩していて、一向に列が進まないのだ。喧嘩しているのはアフリカ人のようだ。私や他の白人達はウンザリと言った顔でイライラしているだけだ。


「Dr.○○(私の名前)ですか?」



突然、ナイジェリア人が列の外から声をかけて来た。私がそうだと答えると、彼は列を仕切っているリボン上の帯を外して、私に列を離れて付いて来いと言う。彼の帽子には私が所属する研究所のロゴが記されていた。



これはairport assistanceと呼ばれている、私の研究所のサービスマンだ。通常チケットの無い人は空港の出入口より中には入れない。しかし彼らは特別な許可を持っていて、immigration(入国審査)のカウンターまで入る事が出来る。そしてゲストのパスポートコントロールを手助けしてくれるのだ。日本では考えられないだろうが、係官達がいちいち賄賂を要求して来たり、訳の分からない主張で喧嘩して時間を浪費しているような場面では、彼らの助けは重宝する。これだけでもナイジェリアという国が少し分かって頂けるのではないだろうか。



彼について行くとわずか5分で入国審査が行われ、私は長蛇の列にウンザリしている外国人達の羨ましそうな視線に多いに満足した。そして、私は熱気に蒸し返された空港外へと無事に出る事ができた。Lagosはナイジェリア南部の都市であり、ブルキナファソとは違い湿度が高い。ブルキナではすでに乾期でからからなのだが、こちらはまだ雨が降るのだ。その湿気にちょっとクラクラしてしまう。



空港の外ではtaxiの運転手達や裏換金屋が外国人を物色しており、時には強引に腕をとって連れて行こうとしている。しかし、airport assistanceに伴われた私には誰も近づいてこない。少し歩くと、研究所の車が待機する駐車場へと着いた。車には研究所のロゴマークと、青色のdipromatic number(公用車ナンバー)が誇らしげに輝いていた。そう、ナイジェリアでは私が所属する研究所はかなりイニシアティブがあるのだ。この車の後ろ座席に乗ってしまえば、検問で止められたり、その度に賄賂を請求されたりもしない。なぜなら公用車ナンバーに加えて、助手席にはライフルを持った警察官が鎮座しているからだ。なんだか要人になったみたいで、ちょっと気分が良い。



「ナイジェリアは初めてですか?」



「ああ、来るまでに色々あったけどね。」



「この国はどうですか?」



「まだ何とも言えないね。本当に着いたばかりだから」



運転手と何気ない雑談をする。嬉しい。なぜなら「言葉が通じる」からだ。日本にいる時は英語など大嫌いで、イタリア人の友人と「世界大戦に負けなければ、世界の公用語は日本語だった、」とか「いやイタリア語だ」「違う、お前らは作戦にいちいち遅刻して来たはずだ、そのせいで負けた事もあるだろうから、やはり日本語が優先だ」などと話していたものだ。それが今では英語が通じるという事だけで、何でも話せるように錯覚してしまう。




そうこうしているうちに、助手席の警察官は居眠りを始め、車は高速道路に入ったようだ。




「う〜む、速いな」



これは移動がスムーズだったという意味ではない。単純に速度が速いのだ。こちらではドライバーの優劣は目的地までにどれだけ速く着くかで判定される。そのため、ドライバーは次々と追い越しをかけてゆくのだ。



「今日は渋滞が無くていい調子ですよ、Dr.」


「そうなのか、本部までは3時間くらいと聞いているけど」


「任せてください、2時間でお連れしますよ」



バックミラーからチラと見えるドライバーの目に、怪しい光が宿っていた。Lagosはナイジェリア最大都市であるが、それに伴い渋滞が大きな社会問題になっている。ただでさえ、気が短いナイジェリア人だから、渋滞などに巻き込まれようものなら、クラクションの大合唱が始まる。時折そこに怒号も混じる。



アフリカ人は良く呑気だとか、仕事が遅いとか言われる。しかしツボにハマった時の勢いは凄まじいし、パワフルだ(どんなに進行が乱れようと、結局締め切りには間に合ってしまう)。普段はあまり怒る事は無いようだが(ブルキナでは)、一度スイッチが入ると怒気もまた凄まじい。このようにムラッ気があるのがアフリカの人の特徴ではないかと密かに思っている。




「あれ?気のせいかな?ここは高速道路のはずだけど・・・・」



高速道路とはいえ、舗装路が乱れていたり、凸凹している程度ではもう驚かない。・・・・しかし、ちょっと待て。確かここは片側3車線のはずだ。おっと、待て待て、車間距離が近すぎるぞ、ぶつかるじゃないか(140km/hで走行中です)。えっ、おいおい!そこは中央分離帯だぞ。そんな所を走るなよ。っていうか、反対車線だぞ!おわ〜〜〜〜!



流石にこれには驚いた。片側3車線の道路が5車線になっているのを想像できるだろうか。時速140kmで走行している車同士が車間距離1mも取っていない。しかも渋滞したり、車が詰まっていると平気で中央分離帯から追い越しをかけたり、そのまま反対車線を走ったりする。やりたい放題だ。



映画などでカーチェイスの場面があると思う。それを想像してもらえば分かるだろうか。しかしそのカーチェイスの最中の車に乗るという経験はなかなか無いだろう。お前ら一体誰に追われているのだ。




注:信じられないかもしれませんが、高速道を走行中の車内から撮影しています。左側の黒い車、中央分離帯を乗り越えて来た、反対車線の車です。





「すごいもんだな、そんなに急がなくても良いのだが・・・」



「いいえ、Dr. この先はさらに渋滞する事が多いですから、夜になるまでにあなたを研究所にお連れしなくては行けません。まあ任せておいてください。」




そういった彼の目から、再び怪しげな光が放たれている。そうね、もう車に乗ってしまったし、彼に任せる他に仕方が無い。同僚の話では酷い渋滞に巻き込まれると10時間以上も車列が動かない事もあるという。それはそうだ、片側3車線の道路に5車線で無理やり走り込んで、かつ、反対車線も同じ事をやっているのだから、6車線の道路に10車線分の車が走っている事になる。これが双方からぶつかり合えば、当然渋滞の車列は動き様が無くなる。あきれた事に、このような事態になって車が二進も三進も行かなくなると、ドライバー達は車を降りて近くの日陰で寝てしまうらしい。




「よし!」




肚を決めた私は、車が速度を上げる前に早々に寝息をたてた警官を見習う事にした。運を天にまかせ、半ばヤケクソで目を閉じた。もう景色とかどうでも良いや。



驚くほどに寝心地が悪かったのは言うまでもないだろう。このような場合、よく「生きた心地がしなかった」というが、車を降りた時の私は「生きてる」という充実感に満ちていた。







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第23話 2千年来の友達 / When one god deserts you, another will pick you up.


「ここに座れ。」


「・・・・・・・」



「フランス語がわからんのか?」



「・・・・・ああ」



「まったく、日本人てのはもっと温厚で礼儀正しいはずだろう?一体なにがあったのだ?」



「なあ、タバコ・・・・吸っても良いか?」





私はコートジボアール空港の空港警察が詰めている事務所に連行された。想像していたような、取調室ではなかった。彼らが休憩所として使うスペースのように見えた。フライト中は勿論だが、その前のチケット変更問題からここまで、ロクにタバコを吸っていなかった私は、ここに来て一服付けたくなった。タバコを吸いたいというフランス語は、結構流暢にしゃべることができる。場合によってはムスリムの社会では、酒は勿論御法度だが、タバコも嫌う人がいると聞いていたから、吸う前には許可を得るようにしていた。



「お前タバコを吸うのか、これを使いな」



「ありがとう。」



警官もタバコを吸うらしい。空き缶をくりぬいた手製の灰皿を貸してくれた。空港内は禁煙なのだが、この事務所内は例外のようだ。不思議な話だが、私は異国の地で警察に捕まっているにも拘らず、些かの恐怖も動揺も感じていなかった。すべてが現実ではない様な気がしていたからかも知れない。最初の一服を肺に送り込むと、喫煙者なら知っている、あの独特の気怠さが体に広がって行く。



「ふ〜〜〜、やっと落ち着くな」



「ふふふ、お前、自分が拘束されているのに、随分とうまそうにタバコを吸うな?」




「ん?まあそう言うなよ、今日は色々とあってな、タバコが身に染みるんだ」




警官も自分のタバコを探したが、見つからない。私は自分のタバコを彼に勧めた。彼は(正確には彼らは)ちょっと考えたが、一本抜き取りマッチで火をつけた。やっぱり不思議だ。拘束された容疑者(私)と警官が、まったりとした時の中で紫煙を燻らしている。私はこの後の事にもまったく不安を感じなかった。なぜかは分からない。科学者としてタバコの害を知らない訳はない。健康オタクに自分の肺を汚す愚かさを散々指摘されても、それが何だというのだ。タバコの害に関する知見は正確だ、正しい。だが本当に「百害あって一利無し」なのだろうか。



近年の医学の進歩はまさに日進月歩だ。しかしそれは高々ここ100年の知見だと言える。タバコと我々喫煙者はすでに2000年の時を共有している、古くからの友人なのだ。私が子供のときには、タバコを吸うのは大人のステータスだった、憧れの象徴だった。時を経て、タバコは映画の中でカッコいい男が哀愁や孤独、そんな男の子の心をくすぐるキーワードとともに扱われる備品のひとつであった。最初はカッコをつけるためだけに、そのうち苦労や喜びの傍らにその友人はいつもいた。女性の事は良くわからないが、男には一人の時間が必要であり、そのとき、酒やタバコがもの言わぬ最高の相棒となりうる事を、男は成長とともに知るのだと思う。人によってはそれが、タバコ以外であることもある。私は酒をあまり飲まないから、一人の時間をともに過ごしてくれるのは、タバコと釣りと本である。タバコを吸うというのは、つまりはそういうことだ。理屈ではないのだ。




「で、ジャポネよ、ここに何しに来たんだ?」



「俺はナイジェリアまで行きたいのだ。ここはトランジットで滞在しているだけさ」





紫煙の隙間から、警官が片言の英語で尋ねてくる。それに答えながら、私は事の顛末を少しずつ説明した。




「そいつは不運だったな。しかし困ったな。ビザがないと空港外には出せないし、この空港にはトランジット用のスペースがきちんとは確保されていないぞ?」




以外かも知れないが、アフリカではこのような事が良くある。アフリカの人は基本的にビザを必要とせず、アフリカ内を移動できる(正確には参加しているグループによってビザの必要性は異なる。例えばブルキナベはニジェールやナイジェリアに行くのにビザはいらないが、カメルーンに行くにはビザが必要となる。それは所属している共同体に依存する)。しかし私の様な東洋人はだいたいの国でビザを必要とするのだ。アフリカ内の移動はよく飛行機のトラブルが起きる。2時間3時間の遅れ、欠航、急な便の変更などは日常茶飯事だ。にも拘らず、空港内にはトランジット用のきちんとした間仕切りやスペースがない事もある。私の友人はトーゴで6時間のトランジットを過ごすのに、ビザがないからと係官と大分揉めたあげくに何とか次の便の搭乗口付近まで通過させてもらったらしい。


ここコートジボアールもどうやら同じようで、特定のトランジットスペースはあるにはあるようだ。しかしボーディングチケットがない。まだ飛行機が確定していないからだ。普段ならあり得ない話だ。ボーディングチケットさえあれば、レストランやお土産物屋があるエリアまで進む事ができる。しかしチケットがないとチケットカウンターしかない、この寒々としたエリアでひたすら2日間待つしかないのだ。


「まあ、仕方がないさ。待つのは耐えられるだろうけど、2日間タバコが吸えなくなるのは困るな。たまにここに来て吸わせてくれないか?あるいは逃げないから、ちょっとだけ外に出て、吸わせてくれよ」




「2日間もここに泊まって耐えるのか?う〜む、それは酷い話だ。まあちょっと待ってろ」




捨てる神あれば、拾う神あり。異国の地、肌の色も言語も違う人々、警官と科学者。まるで違う我々だ。でも不思議といっしょに紫煙を燻らせたら、何か友達な気がしてくるから変な感じだ。彼はいそいそと数本の電話を掛けた。そして私に付いて来いとジェスチャーをして見せた。




「おい、止まれ。パスポートとボーディングチケットを見せなさい。」



チケットカウンターがあるエリアから、大きなゲートがある2階へと進んだ。ゲートでは係官が手荷物のチェックとチケット・パスポートのチェックをするお決まりのエリアだ。そこに警官に付き添われた、預け入れにしなければならない大荷物を持ったままの東洋人が現れたのだ。係官も不審に思っているだろう。




「おい***(係官の名前)、元気か?こいつはちょっと訳ありでな、俺が保証するからこっちを開けてくれ」



そういうと、係官専用の小さなゲートがスッと開いた。私はpolice escort付きでどんどんと奥に進んで行く。付いた先はレストランだった。支配人らしき男と警官が話をしている。どうやら飯を食わせてくれるつもりなのかな?と思っていると、レストランのウェイターが出入りするドアが内側に開かれ、一人のウェイターが私の荷物を持ってくれた。警官はチケットが確定したら、1階のさっきの場所まで降りて行ってボーディングチケットを受け取るように私に注意すると、そのまま階下の持ち場へと戻って行った。



なんだか分からないが、従業員用の通路を歩いて行くと、驚く事にそこに二つだけゲストルームがあった。どうやらトランジットに失敗した人の緊急用ホテルらしい。こんな施設があったのか。普通の人は絶対に知らないだろう。なんせレストランの従業員通路の奥にあるホテルだ。私は臨時のポーターに礼を言って部屋に入った。そして、驚いた。そこにはバスタブがあったのだ。ブルキナファソに来てからすでに6ヶ月、シャワーだけの生活だった。足を伸ばせる湯船をどれほど夢見た事か。



トランジットの2日間、私は6回も風呂に入った。湯船に湯をなみなみと張って(これがどれほど嬉しい事かを読者に伝えるのは困難だ)。レストランは少々高かったが、味もサービスも良かった。何よりウェイター達がみな私の境遇を知っていたから、親切だった。お土産物屋で菓子とタバコ、そしてライターを入手したときも、ボーディングチケットの提示を求められたが、事情を話すと、何とか購入させてくれた。



 Air Nigeriaの担当官の読みは正確で、2日後の便にキャンセルが出て、私は無事にボーディングチケットを入手し、ナイジェリアへと旅立つ事が出来た。狭いエリアに限られてはいたが、2日間充分に美味なコートジボアール料理と風呂を満喫して。

無論、旅立つ前に警官達の事務所に立ち寄って、いっしょに最後の紫煙を燻らせた事は言うまでもない。もしかするともう二度と会う事もないかも知れない、2千年来の友人達と。

第22話 日本人科学者拘束 / Captive scientist




「動くな!おとなしくしろ!!」


「待て!離せ!!」


「うるさい、こっちへ来い!!」


「日本人舐めるなよ!国家権力なんぼのもんじゃ!!」


「なんだ!中国人じゃないのか?ええい、いいから大人しくしろ!!」



Cote d'Ivoire。アフリカ大陸西部、ギニア湾に面する共和国で、首都はヤムスクロ。かつてはこの地域の海岸から多くの象牙が搬出された事から、国名にも「象牙海岸」の名が残る。この国の最大都市アビジャンの国際空港で、ある日本人科学者が空港警察に拘束された。



いやまあ、私なんですけどね。人生で初めてです、後ろから羽交い締めにされたのは。別に禁輸品を持ち込んだ訳でもないです(そもそもそんな物がどこで売っているのか知りません)、空港内で喫煙していたわけでもなく(私は愛煙家です)、道行くお嬢さんに不埒な真似をした訳でもありません(私は紳士ですし、フェミニストです)。事の成り行きはこうです。


結局、朝一でブルキナファソワガドゥグゥ国際空港に行ったものの、飛行機には乗れなかった。乗るべき飛行機が無いからだ。そこから航空会社のオフィスへ向かい、チケットの変更作業にほぼ6時間かかった。ブルキナファソには私が使うAir Burkinaのオフィスは勿論あるが、コートジボアールから先はAir Nigeriaを使う必要があった。この不測の事態にAir Burkinaの担当者はAir Nigeriaのチケット変更手続きがブルキナファソからは出来ないと繰り返した(本当か?)。そうは言われても困るのだ。そもそもロクにメンテも更新も出来ないオンラインブッキングシステムなど導入しておきながら、いざ問題が起きると責任逃れをするなど、私は許さない。


とはいえ、しかたがないから、最も早い同日の便に変更して、とりあえずはコートジボアールまで飛んだのだ。しかし到着したときにはすでにほとんどの航空会社のチケットカウンターは閉じていた。当然だ、もう夜の10時近い。幸いにもAir Nigeriaのチケットカウンターは開いていた。


「助かった、仕事熱心で感心だよ」


私はナイジェリアは初めての訪問だが、かの地を知る友人の情報はあまり良い物ではなかった。ここまで、ブルキナというかアフリカ自体に疑心暗鬼となっていた私がチケットカウンターでの相手の対応を心配したのも仕方が無いと思う。しかし、カウンターの責任者らしき男性は私の説明をきちんと聞いてくれ、予想とは些か違う反応が返って来た。


「それはお気の毒でした。事態は了解しました。すぐに代わりのチケットを手配致します。しかしながら、本日中のフライトはありません。申し訳ありませんがチケットが確定するまでここに滞在して頂く必要があります。」


「それは仕方が無いでしょう。素早い事態の把握と対応に感謝します。できれば明日の便でLagosまで飛びたいのですが、一番近いチケットは何時でしょうか?」


「すみません、ナイジェリアへの便は明日もありますが、Lagosの便は無いのです。明後日にLagos行きの便がございすが、現在満席です。そのため明々後日の便を一時的に押さえておきました。しかし、ここはキャンセルが良く出ます。私の印象ですが、明後日の便についても若干のキャンセル枠が出ると予想できます。しかしこの情報は明日以降でないと更新されないのです。すみません。」


「良くわかりました。仕方がありません。私はこの国のビザを持っていませんから、空港内にいることにします。」



「ちょっと待って下さい。」


ここまでの彼の対応はパーフェクトだと思った。この後のアドバイスも全く持って的を得ており、親切な物だった。しかしそれが裏目に出たのだ。



彼が言うには、今回の事態はAir Burkinaのミスである。Air Nigeriaのチケット変更には変更手数料がかかるが、これは本来Air Burkinaが補償するべきである。そして、もし私がコートジボアール内でトランジットを余儀なくされるなら、それについてもAir Burkinaは補償する義務があると。・・・・尤もだ。



私は彼のアドバイスと彼の親切な対応に礼を言って、Air Burkinaのチケットオフィスに急いだ。ここに落とし穴があったのだ。



「こんばんわ、マドモアゼル。ちょっとよろしいですか?」


「?」


何と言えば良いだろう。私は日本で私立大学の助手をしていた事もあるから、最近の「若者」というのを知っている。正確に言えば最近の「良い若者」と「悪い若者」、もっと言えば、最近のまともな奴とアホを見て来ている。しかしここは国際空港のチケットカウンターだ。まさか目の前に髪をいじりながら携帯電話で話をする係員がいるとは思わなかった。学生じゃあるまいし。しかも彼女は私がガラス越しに立って、挨拶をしてもまだ携帯を切らない。それでも私は辛抱強く、冷静に事態を説明した。



「・・以上の経緯から、Air Burkinaはチケット変更手数料と私のコートジボアール滞在中の補償をするべきだと思います。如何ですか?」



「・・・・・」



私は自分の目を疑った。係の女性は一言も発する事無く、「Close」の看板を窓際へ放ってよこし、再び携帯電話で話し始めたのだ。私は言葉を失った。




・・・フフフ、ははっはははははは。そうだな、ここ数日いろいろとあって疲れている。今日も散々な目にあって、疲れ果ててここまで来たのだ。その諸悪の根源が目の前で私に見せた態度がこれか。なるほど、そう来るのか。フフフ、面白い。実に不愉快だ!




バシン!!!!


勢い良く書類が窓に叩き付けられる。カウンターの中の女性が驚いてこちらを見る。その顔が恐怖に引きつるのが分かった。写真が無くてお見せできないが、私の顔はかなり怒りに引きつっていたのだ。



「よろしいか?あなたがフランス語と英語を小学生並みに理解できるのであれば、この書面に書かれた意味がお分かりになるはずだ。このマークが見て頂けますかな?あなたの所属する航空会社であることは明白ですね?しからば、この書類はあなたの会社の書類であるという事です。ここには貴社が負うべき責務について記載があります。私が先ほどから尋ねているのはこの部分です。見えますか?」



彼女に突きつけたのはチケットとともに渡される、空港会社のレギュレーションだ。怒りに満ちた(であろう)私の表情に反して、発せられる丁寧なKings Englishが彼女を更に狼狽させる。これは私の癖だ。いよいよ怒り震盪してくると、日本語でも英語でも口調が丁寧になって行く。この癖は師匠から受け継いだ物であり、師匠は普段は温厚で学生に対しても屈託の無い話し方をするが、イライラしだすと次第に慇懃な喋り方になってくる。セミナー時などは師匠のこの傾向が出始めると、院生や助手の私は緊張を強いられた物だ。ピンと来ないかも知れないが、あからさまに怒声を浴びせられて説教されるよりも、冷静に、美しい日本語で、己の存在意義を丁寧に否定される方がよほど恐ろしい物なのである。これがしっかりと私にも受け継がれていたのだ。


「おや?どうされました、マドモアゼル?顔色が青いようですよ?黒人でも顔色が変わるのですね、初めて知りましたよ!」


結構酷い人種差別発言だが、気にしない。これは映画"Blade 3"で主人公の黒人男性(ヴァンパイヤハンター)を他の白人のヴァンパイヤが愚弄するときの英語を拝借している。だめなのだ、今日は。自分を制御し切る自信がない。


「なんなのよ、訳分からないことを言わないで」


「失礼、今何と?その英語は何ですかな?仮にも国際空港におつとめなのですから、最低限の英語教育は受けているはずですよね?それが分からない?そんなはずはありませんよね?」



残念だが、こうなった私はそう簡単に引かない。自分で言うのも何だが、極めて質が悪い。口調は丁寧だが、私の声はすでに怒声である。時折口調が強くなると、人が少なくなった空港内に私の声が響き、彼女の顔から更に血の気が引いて行くのが分かる。私は普段は紳士でフェミニストだが(自分で言うと説得力が無いが)、礼儀をわきまえないアホにはサディストである。私の友人と私が指導した学生諸君はこれを良くわきまえている。


彼女がどういうつもりで件の態度を取ったのかは不明だが、そのときの私には「アホな東洋人が来やがった。勤務時間もそろそろ終わりだし、適当にあしらおう。何か賠償の話をしているようだし、面倒だ。無視していれば諦めるだろう。」と彼女が考えているように思えた。そうは行かない。甘い、激甘な思考だ。この愚物めが。


冷静に思い返すと、私も結構ひどい事を考えていた物だ。そんなとき、背後に数人の人の気配を感じた。仮にも武道家である私が、簡単に背後を取られ、かつ、羽交い締めにされたのは、自分の体力と武道家としての鍛錬がここ数年の乱れた生活で低下し疎かになっている事を自覚するのと同時であった。


私は空港警察に拘束され、彼らの事務所へと連行された。