第34話  悪循環 / Negative spiral


「先生、恋人はいますか?」



「お、定番だね。残念ながら、結婚しているよ。ちなみに年齢は想像に任せます」



無邪気な笑みの中に、10代後半の好奇心が潜む。そんな70個の瞳が私を見つめている。今の私なら、彼女達の「若さ」に少したじろぐかも知れない。でもそのころの私は、常に「新鮮な21歳が補給」される特殊な職場にいたから、若さに対して免疫を持っていた。大学の研究室で助手をしていると、毎年「卒業研究生」を受け入れる。彼ら(彼女ら)は常に21歳の若者として、毎年新しい年代の顔を見せてくれる。だから、このときの私は彼女達の無邪気さと好奇心とが入り交じった視線を、上手く躱す術にも長けていた。


場所は高等看護学校の一室、物理・化学・生物学という彼女達、準看護師にとっては所謂「教養科目」の担当教師として、私は教壇に立っていた。一般の方には馴染みが無いだろうが、準看護師は正規の看護師の一段下に設定されている役職であり、色々と立場的に弱い。ややもすると使いっ走りとも言われるが、叩き上げの看護師の登竜門とも言える。現場に一番近い人たちだ。彼女ら(ときに彼ら)が正規の看護師になる場合、高等看護学校で専門過程を修め、国家資格を更新しなくてはならない。専門課程は、例えば、「解剖学」・「生理学」・「看護学」・「免疫学」などなどの、プロ用の専門教育だ。しかしながら、多くの准看護師がそうであるように、高校卒業の資格しか持たない彼女達には、高等看護学校で「一般教養」を習得する必要があるのだ。


多くの場合、高等看護学校では専門科目の講師に困る事はない。なぜなら、近くに病院があれば、そこには多くの「専門家」がいるわけだ。高等看護学校はまた、地元の医師会が隣接されており、講師の調達に事欠かない。ただし、「一般教養」においてはそうはいかない。多くの医師が高い学歴を持っているのは間違いないが、平時の尋常ならざる忙しさからすると、とても「一般教養」までは手が回らない。そうすると、学校を管理する医師会はこれらの科目の為に講師を新たに調達する必要がある。医師会が大学や大学病院のそばにあれば問題は無いが、地理的に不利な場所にある医師会では、この「一般教養」を教える事が出来る講師を調達するのが極めて難しくなる。



私の師匠は、元々旧帝大の医学部の人だった。助手時代、びっくりするような低給で辟易していた私に、「修行」を兼ねたアルバイトとして、師匠が持って来たのがこの「講師」の仕事だった。流石にスポンサーは医師会、いい給与と条件だった。だが、それよりも新鮮に、そして鮮烈に私の記憶に残ったのは、若き現場の看護師達の姿だった。意思に燃え、それでいて十代後半の悪戯っぽい仕草や怠惰を捨てきれず、日々の過酷な労働に追われつつも、新しい知識の(専門科目ではない)吸収に純粋な喜びを示してくれる。私もアルバイト感覚を改め、彼女達に精一杯科学の魅力を伝えようと、誠心誠意をつくして授業を行った。化学を教えるには、錬金術師のおとぎ話から、遺伝学を教えるには、古事記から日本誕生の秘密と、日本最古の男尊女卑の話を引き合いに出し、彼女達にとっていままで面倒な教科書の暗記科目でしかなかった科学に、私なりに光を当てたつもりだった。大学で教えるときとはひと味違う、充実した知への欲求とそれを得る喜びを我々はちょっとだけでも共有できたと思う。楽しい時間だった。




「・・・・また、昔の夢か・・・・」



帰国が近づいていた2月下旬、なぜか昔の夢を良く見るようになっていた。センチメンタリズムなどごみ箱に捨ててしまえ、と平時思っている私は、この連続する夢に辟易としていた。教えた学生達、がなぜかよく夢に出る。



起き上がると、マットレスに人の形の染みが出来ている。私の汗だ。昨日もまた停電があり、暑くて仕様がない状態で、無理矢理に寝たのだ。窓を開ければ少しはましだろうが、虫が嫌いな私にその勇気はない。何が入ってくるか知れたものではない。暑苦しくとも、停電が復旧する事を願いつつ横になっていたのだが、いつの間にか寝てしまっていたようだ。昨日はシャワーすら浴びていない。正確には浴びる事が出来なかった。Saria村の研究所内は水道に村の地下水を使っている。そのため、研究所の一角に巨大な水のタンクがあり、そこにポンプを使って地下水をくみ上げ、位置エネルギーの力を使って、研究所内に水道を走らせている。水は結構、美味しい(もちろん煮沸消毒してから飲むが)。ところが、タイミングが悪いと、このタンクの残水が少ない状態で停電してしまい、断水してもポンプが停電で動かず、停電と断水のダブルパンチを食らわされる事になる。停電はなんとかしのげるが、断水は厳しい。今更ながらに、人は水無しでは生活できない事を思い知る。




「ドクター、今日はどうしましょうか?」



「そうだな、電気が無いとパソコン仕事はできないから、倉庫の棚卸しをしてくれ。特に農薬と肥料の残量をもう一度調べて報告してくれ」



オフィスに行ったものの、電気が無いと仕事がきつい。ずいぶんと人はパソコンに依存する仕事形態を取るようになったものだ。停電も15時間を超えると、携帯電話の中継機もやられて、(特定の電話会社の)電話も通じなくなる。こんなときは、同じように所内で時間を持て余している他の科学者と議論をするのにちょうど良い。その日も、パソコンが使えずに所在無さげにしている、Saria研究所の所長と相棒のイサカを捕まえて、プロジェクトの次の仕事内容やSaria stationのインフラ(特にインターネット)について話し合っていた。


2011年2月22日だった。所長室の外が騒がしい。どうやらスタッフ達の送迎を担当している運転手が、物品と物流を管理するマテリアル・チーフに何か慌てて相談しているらしい。そこに研究所の守衛達も混じって、騒がしくなっていた。



「なんだろうね?」



「おい、マダム!」



所長が秘書を呼びつけて、騒ぎの原因を問いただす。すぐにマテリアルチーフが所長室に現れて、説明を始めた。所長のLamienは一瞬顔を曇らせた。イサカはすぐに電話を取り出すが、通話が出来ないようだ。



Saria村から幹線道路に出るときに必ず通る、Poaの話は以前に触れた。ここにはSariaから一番近い警察署がある。といっても、交番程度の大きさしかない。Sariaで何かあれば、ここPoaの警察官がSariaまで駆けつけるのだが、悪路を12km走ってこなくてはならない。だから私はこのPoaの警察署には早々に諦めを付け、自己防衛に力を入れていた。当時は万が一、家に強盗でも入ろうものなら、相手を殺めてしまう覚悟すら持っていた。怖い話だが、こちらでは自己防衛が基本だ。そしてさらに怖い話だが、防衛の為に悪漢を殺害しても「ほぼ」罪に問われないとスタッフに聞かされていた。ちょっと話が逸れたが、このPoaの警察署が「事件」を起こしていた。



当時、通学途中の学生がPoaの警察官に止められた。そこで何らかのやり取りがあったのだろうが、結果として学生は警官の暴行によって意識不明に陥った。その後、Poaの管轄権をもつKoudougou市の警察署から、学生が「病死」したと発表があった。明らかな事実の隠蔽である。これに怒ったKoudougou市の学生が大規模なデモを始めたのだった。SariaのスタッフはほとんどがこのKoudougou市に住んでおり、研究所の送迎車で毎日通勤している。そのため、デモの影響で帰りの車を出すかどうかを相談しているという事だった。


私は即座にデモの規模を聞き取り、オフィスへと戻った。関係各所に連絡を入れる為だ。まず、私が所属する国際研究所の同僚とセキュリティマネージャーにメールを書く、しかし停電で送信できない。次に「緊急用」の携帯電話のsim cardを取り出し、辛うじて通話できる状態で大使館と某国際協力事業団へと連絡を入れた。特に某国際協力事業団の隊員が数名Koudougou市にいることを知っていたからだ。幸い、大事には至っていないようだった。大使館はKoudougou市から近い私の居住地区の安全性を憂慮していた。こちらで私は2台の携帯電話と3社のsim cardを持っている。こちらでは一台の携帯電話に2〜3社のsimを入れて同時に使う事ができる。このような緊急事態に備えて、私も準備をしていたのだ。


午後になると停電は復旧したが、事態は想像よりも悪い方向へと進んだ。どうしても送信しなければならない数通のメールがあったため、私はKoudougou市に出張する予定を午後に入れていたのだ。スタッフの話では大した危険は無いという事だった。しかし、念のためにUSBのネット接続機器が動作する場所まで近づき、メールが送信されたと同時に帰ってくる事にした。




「なあ、ヌフ、日本だとデモとかは形ばかりで、安全な物だ。こっちではどうなんだ?」


「ドクター、ブルキナベは時々やり過ぎるけど、ここは大丈夫ですよ」



老齢なドライバー・ヌフはその豊富な経験談で私の気持ちを落ち着けようとしてくれているようだった。しかし、彼の目も、Koudougou市の入り口付近で鋭い光を放ち始めた。前方から多くの黒煙が立ち上っていたからだ。危険が近い、彼の目はそう言っていた。



道路の両脇の私道にはタイヤが積み上げられ、ガソリンだろうか、何かがかけられた上に火が放たれて濛々とした黒煙を巻き上げている。道路脇の店はすべて閉まっており、人が居ない。まるで戦争映画だ。嫌な予感がする。私とヌフは急いでメールの送信を確認すると、もっと見て回りたいという好奇心と恐怖心を戦わせて、結局、Saria村に引き返す道を選択した。この判断は当たり前ながら、正しかった。


夕闇が迫るKoudougou市の西の空が嫌な色に染まっていた、ちょうどそのとき、暴徒と課した学生と日頃から警察官の横暴に怒りを貯めていた市民とが加わり、黒い濁流となった怒りのデモ隊は市内を暴れるに飽き足らず、ついにKoudougou市の警察本署へとなだれ込んでいた。学生達は警察車両に火を放ち、警察署の壁から、本署施設までを破壊し、火を放った。恐れをなした警官達は自らのオフィスを捨て、方々へと逃げて行ったそうだ。むしろ幸いだ。彼らが銃器で応戦していたら、事態は取り返しのつかない事になっていただろう。



翌日からは様子を見る為に、私のスタッフには休暇を与えた。なるべく家にいるようにと。そして情報が入ったら、電話で知らせて欲しいと頼んでおいた。久々に、こちらの人の「爆発力」を見た気がする。普段温厚なブルキナベも一度「火」がつくと、我々日本人がイメージする「暴徒と化す黒人」となるのだ。その怒りのエネルギーは凄まじい。特に「大義名分」が加わったとき、普段の真面目さがこのエネルギーに油を注ぐのだ。


不幸中の幸いで、Koudougou市にいた日本人達も無事だったようだ。市民も暴れるだけ暴れて、誰が殺されるでもなかったようだ。暴徒は警察署を焼き払い、鬱憤が晴れたのか、またいつもの日常へと戻ったらしい。ただし、この事件がニュースとなり国中に広がったとき、憂さ晴らしでは済まされない「何か」を国民に植え付けたようだ。事実、この後の出張中も、至る所の警察署(交番)周辺で投石などのデモに出くわすようになった。規模こそ小さい物の、それを目にすると、否応なく危険な空気を肌で感じる事になる。このままでは終わらないかもな、と。



しかし、人間は強かだ。Koudougou市のデモから数週間が経つと、いつものSariaに戻っていた。3月に入ると、いよいよ年次休暇と年度締めの為の追い込みが始まった。毎日が忙しく、また、毎日のようにどうでも良いトラブル処理を迫られ、疲れのため夢を見る事も無くなった。


家にある書斎での残業中(といってもすでに朝になっていたけど)、珍しく書斎からもネットに繋がる好条件の日だった。妻からメールが入る。この時間なら日本は3月11日の午後だろうか。



宮城県沖地震発生。家族は無事。停電中。」



短いメールで携帯から送信されていた。私の家は宮城県にある。地震が起こると、たびたび携帯が不通になることがある。多くの人が一斉に安否確認やメールを打つ為だ。宮城に生まれ育ち、それを十分に承知していた私は、(そのときは愚かにも)慌てずに「余震に気をつけてね」などと返信していた。妻からの返事は無かった。妻も同様に宮城出身で、地震後の携帯不通を承知しているから、不通になる前に素早く短いメールで状況を報告したのだと思っていた。それは事実であったが、まだこの時点では「何が起きたのか」をSariaからでは知りようが無かったのだ。



徹夜明けのまま、事務所に行き、午後になった。すると、食事中のはずのスタッフ達が血相を変えて事務所にやってきた。すぐに食堂のある場所まで連れて行かれた。そう、Sariaで唯一テレビが見られるのがこの食堂なのだ。そこにはフランス24というフランスの衛星放送の映像が繰り返し流れていた。




そこで見た画をなんと言えば良いのだろう。



そのときの気持ちを何と言えばいいのだろう。




メールも電話もすでに宮城県を含む東北地方へは通じなくなっていた。唯一の救いは、少なくとも妻と息子は無事である、という極めて利己的だが、動かしがたい安堵感だけである。


私の家は宮城県にある、そして私が教鞭をとっていた大学は石巻市にある、私が立った看護学校の教壇は気仙沼市にある。私の家族が、恩師達が、友人達が、手塩にかけた学生達が、そこにいるはずだった。




「馬鹿野郎!!!!」




普段は口は悪くとも直接の暴力を嫌う私が、日本語で怒号を発し、手元の椅子を掴んであさっての方向へと投げつける。食堂の隅に積んであった机にぶつかり、周囲の空き瓶が粉々に砕け散る。周りにいたスタッフや食堂の従業員の顔から血の気が失せるのがわかった。私の顔にはアフリカに単身赴任してから最大の怒気が満ちていたはずだ。





馬鹿野郎どもが、「あの夢」が別れの挨拶のつもりじゃないだろうな。






宮城県沖地震と妻が言ったそれは、後に東日本大震災と呼称を変えた。











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